2021年03月01日

「カナリア諸島にて」

1981年の夏は海へ行くと必ず海水浴客が
大きなラジカセを持って大瀧詠一さん
の曲をあちらこちらでかけていました。
それがこの年の春に発売された大瀧詠一
さんのアルバム『A LONG VACATION』です
ビーチで1日中流れているので僕も曲を覚
えてしまいました。(笑)
中でも「君は天然色」と「カナリア諸島に
て」「恋するカレン」が特に良かったです
ね〜

ワイルドワンズが再結成して夏に葉山へ
加瀬邦彦さんと釣りに行った時もボートに
ラジカセをのせ『A LONG VACATION』を
かけていたのには大受けしました。(笑)

大瀧詠一さんとお会いしたのは1971年頃に
「はっぴいえんど」のメンバーだった時、
有楽町で数バンド集まったイベントでした
がその時は残念ながら会話はしていません

ギターを担当していた「鈴木茂」さんとは
加藤和彦さんの仕事で2ヶ月ほど一緒にお
仕事をしましたがユーミンさんのレコード
で見事なギターを弾いていた時と同じく
いつも良い感じでギターを聞かせてくれま
した。
彼とは偶然渋谷でお会いした時に公園通り
にあった「元禄寿司」で一緒にお食事を
した想い出があります。

観音崎にあったマリーンスタジオで泊まり
でレコーディングをして終わって飲んでい
る時にユーミンさんのお話しが出たので
仲が良かった鈴木ヒロミツさんが言ってい
た話を思い出しお話しました。

1969〜1970年頃にユーミンさんはモップス
のファンだったそうでいつもジャズ喫茶に
ライブを見に来ていたそうです。
最初はやはりタイガースのジュリーが好き
だったそうですがあまりにファンが多く
あきらめてモップスを見に行く様になった
そうです。

あるときユーミンさんがカセットテープに
自分が作った曲を入れてヒロミツさんに
聞いて欲しいと渡したそうです。
で、意見が欲しいと言うことでヒロミツさ
んがユーミンさんに言った言葉が、、、
「う〜ん曲はすごく良いけどちょっと5年
古いかもしれないな〜」と言ったそうです

しかし、実際は5年後に売れて5年早かった
んだよぅ! という話をしたらやたら受け
ていました(笑)

先日アップした「君は天然色」が良かった
ので違う曲もやって欲しいとのリクエスト
もあり今回は「カナリア諸島にて」を演奏
してみました。
「カナリア諸島にて」

posted by 上原オサム at 22:13| Comment(0) | 日記

2021年02月26日

「夢の中には」


1968年という年は僕の人生で最も忘れられ
ないグループサウンズの大ブームの
年でした。
ヤマハのライトミュージックコンテストで
地区優勝してデビューの話もあり夢が膨ら
んでいた時です。
この夏に船橋ヘルスセンターという関東で
一番大きな海に面した大プールがあり一日
に1〜2万人も集まっている所がありました
僕がリードギターを担当していたザ・ライ
ダースも出演して対バンがカーナビーツで
野外大ステージの裏に臨時の楽屋があり休
憩時間にアイ野さんと話が弾み友人にな
ったのです(ニックネームはモッチン)は
当時ヒットしたばかりのジミヘンの「紫の
けむり」やクリームの「サンシャインオブ
ユアラブ」などの難しいギターを弾きこな
していたのを非常に評価して頂きました。

ライダースが解散になりデビューできない
ままバンドを転々としていた時期でもあり
立花京子&パイロット(ポリードール)や
名も無いプロのバンドに参加したりなど、
ついにデビューにこぎ着けたのがシルクロ
ード(RCAビクター)で1969年に
「蒼い砂漠」でデビューが決まり築地の
ビクタースタジオでレコーディングをしま
した。(この頃はすでにベースに転向)
青山の東和ピアノというスタジオでレッス
ンしていた時偶然トイレでハーフブリード
の社長木村さんとお会いしホリプロのマネ
ージャーを紹介して頂きそのマネージャー
からオックスの弟バンドを作るので是非参
加して欲しいと言われ早速スタジオへ・・
いろいろ説得され参加することになってし
まったのですがシルクロードは事務所が個
人経営だったので簡単にやめる事が出来た
のです。

しかしオックスの弟バンドの方が売れずシ
ルクロードの「蒼い砂漠」の方がヒットし
たのです。(笑)
オックスの弟バンドということでやはり親
しくなったのはボーカルの野口ヒデトさん
や岡田シローさんでした
朝まで飲んではキングクリムゾンやイエス
、ディープパープルなどの新しいロックを
聴きながら「GSが終わったら一緒にバンド
をやろう」と僕を誘い四谷で一緒に住む事
になりました。
スポンサーがいて「スナックシロー」を経
営して多くの有名ミュージシャンや女優さ
んが飲みに来ていて昼は喫茶店もやってい
たので休日前や土日には沢山のファンも来
ていたのです。

お店のマッチを作ろうということになりデ
ザインを任されたのですが僕には全くその
才能が無く思いついたのが当時『週刊少年
ジャンプ』に掲載されていた「あらし!三
匹」という漫画に僕の名前やメンバーの
名前が掲載されていたので驚いていたので
すがその作者が「池沢さとし」さんで後に
「サーキットの狼」で大ブレークした方に
相談してみようと思ったのです。
知り合ったきっかけは千葉に住んでいた頃
にGSのジャガーズが好きで歌舞伎町の「ラ
・セーヌ」に見に来たところ対バンだった
僕のバンドのファンになったそうですが
藤圭子さんと全く一緒だったんですね〜
その後わかったんですがこういう方が有名
人で結構いたんです。
池沢さとしさんと連絡を取ってスナックシ
ローに来て頂いて相談したところ快く引き
受けてくれて素晴らしいお店のマッチが出
来ました。
これを現在でも持っている方がいたら開運
「なんでも鑑定団」で知り合いの北原照久
さんに鑑定してもらったら相当な値が付く
かもしれませんね〜
その後池沢さとしさんとはお会いしていま
せんがお会いする機会があれば改めてお礼
を言いたいと思います。
だって無料でデザインして頂いたんですよ
人間的にも温厚で本当に素晴らしい方とい
う記憶しかありません

オックスが解散して岡田シローさんはアメ
リカに勉強の為行くことになり帰って来た
ら一緒にバンドをやろうと約束しましたが
帰って来ると元気があまり有りませんでし
たが理由はよくわかりませんでした
日本との音楽的な差がありすぎて自信を無
くしたのかもしれません

その頃GSは次々と解散して沢田研二さんと
萩原健一さんは「ピッグ」を作り注目され
ていましたがオックスのリーダーの福井利
男さんはそれに対抗しようと「ゴリラ」を
作ろうとメンバー集めに奔走しましたがう
まくいかずそれとは違った日本人が一番苦
手としていたコーラスグループ、ピープル
を作ったのです。
最初のメンバーは「オックス」の前に関西
で所属していたタイガースの先輩バンド
「キングス」のボーカル上田耕三さんでし
たがこの方は歌が本当にうまくて尾崎紀世
彦さんと双璧という感じでした。
キーボードは「ポールナギノ」という方で
僕とは仲が悪く六本木の飲食店で取っ組み
合いの大喧嘩をした方です
お酒が入っていたせいで自制ができなかっ
たようですね
僕の人生でも殴り合いの喧嘩をしたのは後
にも先にもこれっきりでした。
初期の「ピープル」はあまりに大人じみて
いたのでオックスの様にファンが付きにく
かったのですがサウンドは最高でした。
これがきっかけで僕はコーラスに興味を持
ったのです。
いろいろ悩んだようで福井利男さんはアメ
リカから帰って来た岡田シローさんを入れ
る事にして路線をチェンジしました

同時期に僕のバンドも解散し池袋ACBに
「ピープル」を見に行くとステージに出さ
れて歌わされそれが大変受けたようで福井
さんが今日から一週間でレパートリーを覚
え「ピープル」に入れと言われたので当時
タイガースの弟バンドとして沢田研二さん
が可愛いがっていた「ロックパイロット」
でボーカルをやっていたキー坊を誘いたい
と言うと了承してくれ僕はすぐに解散した
ばかりで暇をしていたキー坊の家へ行きお
誘いすると僕も一緒にやりたかったと言っ
てすぐにOKをもらい「ピープル」はメンバ
ーが大幅に変わり僕もベースからキーボー
ドへ配置転換されました
すぐにドラムの牧勉さんもやめて「チャコ
とヘルスエンジェル」を作り活動を開始し
これが新たなバンドブームを呼んだのです
ここからピーターズ・ロックパイロットと
活躍したキー坊との長い付き合いが始まり
「福井利男とピープル」「ローズマリー」
「ジュテーム」「ミッシェル」と一緒に活
動する事になりました。

「ピープル」はワーナーパイオニアだった
のですが度重なるメンバーチェンジと曲が
あまり売れなかったため契約を解除され新
しいレコード会社に所属する事に・・・
それが出来たばかりの「トリオレコード」
でした。
最初は内田裕也さんがプロデュースして名
前を「ローズマリー」に、その後ミッキー
カーチスさんがプロデュースして人気も出
てデビュー曲「あいつに気をつけろ」は都
市部のみで結構売れたので当時のファンク
ラブには1万人以上いた記憶があります。
このバンドのファンだった方に後に爆発的
に売れた「フィンガー5」や「ズートルビ
ー」がいて大ブームを作りましたね!
「フィンガー5」の長男の玉元一夫くんは
弟ばかりだったので僕をお兄さんと慕って
いていつも一緒に遊んでいました
ある時、神谷町でメンバー全員で合宿して
いた一夫くんから電話があり「今日生まれ
て初めて銀座のクラブ姫にスポンサーに
誘われてメンバー全員で行くので一緒に来
て欲しい」と言われ行く事に、僕もあの有
名な「クラブ姫」に行けるのでわくわくし
ていました
お店ではメンバーはカルピスやコーラ−を
1杯ずつ、僕は生ビール2杯のんで7人で勘
定が48万円だったのには驚きました。
これをいつも払っていたスポンサーの社長
さんはすごい!

「ズートルビー」は僕がハワイに住んでい
た時に取材で来ていてワイキキのビーチで
数時間一緒に遊んだのです。
が他の3人は山田君とはあまり仲が良くな
いのが良くわかった事が記憶にあります。
(笑)

著作権の問題で洋楽曲のアップが難しくな
ったので今回は僕が作詞作曲したオリジナ
ル曲でローズマリーの頃に作った曲をアッ
プしました。
この曲はローズマリーも信濃町で合宿して
いたのですがあまり外に出るのが好きでは
無かったので合宿所でキーボードを弾いて
遊んでいた時に作りました。
「夢の中には」をお聞きください!
「夢の中には」
ki-bo.jpg










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2021年02月24日

「愛はきらめきの中に」


モップスのリーダーでボーカルの鈴木ヒロ
ミツさんとはバンドが解散したあとも深い
お付き合いがありました
事務所が同じだったので当時はオックスの
ドラムの岩田祐二(オトン)さんと鈴木ヒ
ロミツさんの二人が中心で飲み会が毎週の
ようにありました
ホリプロはバンドが一番多い事務所でナベ
プロより多かったのです。
所属していたバンドは次の通りで
スパイダース・ヴィレッジシンガーズ・
モップス・パープルシャドーズ・サべージ
・オックス・ダーツ・郷田哲也&サンフラ
ワーズ・オリーヴ等すごい数でした。
飲み会にはバンドメンバ以外にも井上陽水
さん
(当時の芸名はアンドレ・カンドレでした)
も結構参加していてだいたい10名ぐらいの
数で新宿歌舞伎町にあった樽小屋
(たるごや)や伊勢丹近くにあったワイン
セラーなど3〜4ヶ所が多かったです。
しかしお勘定が僕らより給料が10倍以上
ある方も僕など安月給の人も均等に割り勘
は納得がいかなかったです。(笑)
特に一番給料が安かった井上陽水さんは払
えない事も多く何度か僕と他のメンバーで
負担した事も有りました。
彼は仕事が月1本しかなく
(渋谷ジャンジャンのみ)
それでも「給料が安いからおいておけ」と
堀社長が言ったそうで先見の目があったと
思います。
飲み会で僕らと仲良くなった陽水さんは
ビートルズが大好きで最初はバンドを作り
たかったそうですが友達がいないので作れ
なかったと言っていました(笑)
そこでいつもお客さんが満杯のホームグラ
ンド池袋ACBに招待してライブに飛び入りで
曲を披露させましたがお客さんの反応は全
くなくて当時の僕らのファンの方々はあの
良さがわからなかったんですね〜
陽水さんの最初のアルバムから編曲を担当
したのはモップスでギターを担当していた
星勝さんですが飲み会で仲良くなったのと
編曲を勉強していたからでした
GSブームが終わりましたが最後まで解散し
なかたのはモップスで1974年まで続いてい
ました。
理由はGSでは最後のヒット曲の「月光仮面」
や「たどりついたらいつも雨ふり」があっ
たからです
解散後は鈴木ヒロミツさんは役者に転向し
て刑事物のドラマなどに出演して役者とし
ても成功したんですね〜
最初は僕の事を非常に嫌っていたようです
その理由は今となっては反省しているので
すが何でもズバズバと言っていたので生意
気な奴と思われていたようです。
1971年に青森県に有った米軍の基地でお祭
りがありモップスと一緒にロックコンサー
トがありました
司会はまだ売れていなかった愛川欽也さん
でした
僕らの登場となりグランドファンクレール
ロードの「孤独の叫び」を演奏して途中
ベースソロを5分近く演奏したのを横で見て
いたヒロミツさんが終わってから
「ベースソロすごかったね!〜」と
僕に言ってきて帰りの夜行寝台列車の中で
飲みながら朝まで語り合ったのが仲良くな
った理由だったのです。
解散して新しく作ったバンドが六本木に出
た時もよく飲みに来てくれて僕のことを大
変評価して頂きました。
その縁もあり作ったバンドの事をホリプロ
のプロデューサー佐々木勉さんに話して
スカウトに来たのです。
佐々木勉さんとはサベージの「いつまでも
いつまでも」や「3年目の浮気」などヒット
曲を何曲も出している大作曲家で僕に編曲
の事やレコーディングの事を教えてくれて
大変可愛いがってくれました
車の購入には保証人というやっかいな制度
があり印鑑証明を出さないといけないので
なかなか近親者以外の方は難しかったのに
なんと僕の保証人になってくれたのです。
佐々木勉というのが本名だと思っていまし
たが佐々木勤が本名で勉は芸名だったんで
すね〜
一緒に飲みに行くのも楽しくてべんさん、
べんさんと言って随分甘えていた記憶が
あります。
話がそれましたがそういう訳で二度目の
ホリプロ所属となったのです。
何かイベントがあるとヒロミツさんは
「オチャミ」
(いつも僕の事をこう呼んでいました)
のバンドで俺は歌うと言ってデパートの
屋上などの仕事を結構やりました。
歌う曲は「たどりついたらいつも雨ふり」
と「朝日のあたる家」が定番でした。
また、自分が出演していたテレビドラマで
刑事がライブハウスで見張るシーンに抜擢
してくれて出演することが出来ました。
この事もあり山口百恵さんの映画
「泥だらけの純情」にも出演出来たのです
百恵さんのマネージャーは学生時代に僕の
バンドの楽器運びをやっていたので百恵
さんを紹介してくれました
あれだけ売れていて大スターなのに謙虚で 
優しくて人間的にも本当に素晴らしい方で
した。
せっかく二度目の堀プロ所属でしたが契約
満期になりヒット曲も出ないまま僕はバン
ドをやる事に疲れてしまいメンバーにやめ
るので新しいベースを入れてやって欲しい
とミーティングで言ったのですが事務所側
は僕がやめるなら契約更新しないと言われ
ついに解散になってしまったのです。
一番の仲良しだったボーカルのキー坊には
本当に今でも申し訳なかったと後悔してい
ます。
解散後僕は内田裕也さんのバックやBOROの
バックなど一人で活動するようになりまし
た。
色々勉強になった事やロックバンドのメン
バーとも親交が出来た事が収穫でした
裏方の仕事の要請もありあらゆる事をこな
した経験がその後の活動の助けになりまし
た。
ヒロミツさんとは大阪や名古屋で仕事が有
った時に新幹線の中などで偶然お会いする
ことが有り電話番号を教えてくれて六本木
にマンションを借りて住んでいて遊びに
来いよ電話があり遊びに行くと何と中日
ドラゴンズの星野仙一さんがいる事もあり
ました。
せんちゃん、ヒロミツとお互い呼び合って
とても仲が良かったです。
ヒロミツさんの家の中で飲んだりした時に
は青森の米軍基地でのコンサートのベース
ソロの話が必ず出てきます
自分では何とも思わなかったのですがヒロ
ミツさんには相当なインパクトが有ったよ
うです。
二度目にホリプロに所属して一緒に演奏し
た時に「サタディナイトフィーバー」とい
う映画が流行っていてジョン・トラボルタ
がいいね〜と言って何度も映画を見たよう
ですがロックが好きだったヒロミツさんが
ディスコミュージックが好きになったのに
はビックリでした。
今でも時々ヒロミツさんとの楽しい思い出
が甦ってきます。
鈴木ヒロミツさんが好きと言っていた
ビージーズの映画挿入歌の
「愛はきらめきの中に」
How Deep Is Your Loveをお聞きください
「愛はきらめきの中に」
posted by 上原オサム at 15:09| Comment(0) | 日記

2021年02月20日

「ラスト・ワルツ」


7年前に亡くなった藤圭子さんとは
デビュー前からの知り合いで彼女は
16才〜17才頃に僕のバンドを良く見に
来ていました。(1969年)
池袋ACB、銀座ACBそして初めてお話
ししたのが横浜にあるプリンスという
ジャズ喫茶の帰りでした。
その頃僕たちは中野坂上という所に
あった合宿所にしていたマンションで
共同生活をしていて仕事が終わると
5人でタクシー割り勘で合宿所に帰っ
ていました。
横浜プリンスが終わっていつもは
タクシーで合宿所に帰るのですが
その日は他のメンバーは彼女の所に
泊まるそうで僕一人で帰る事になっ
てしまったのです。トホホホホ・・・
タクシーで一人で帰るのは金銭的に
きついので電車で帰る事にしたのです
が僕のあとを一人の女姓が付いてくる
ので顔を見ると阿部純子こと
(藤圭子)さんでした。
僕に「今日は一人で帰るのですか?」
と聞いて来たので「そうなんです」と
返事をすると、「では一緒に帰って良い
ですか?」と言うので「今日はファンも
居ないようなので良いですよ」
と返事をして二人で電車に乗りました
金曜日や土曜日に電車移動すると
ファンが大勢付いてきて他の方に迷惑を
かけるのでメンバー全員でタクシー帰り
だったのですがこの日は平日の夜遅く
だったのでさすがに女子高生は居な
かったので二人で帰る事が出来たのです
夜も遅かったせいか電車は空いていて
ゆったりと座れてお話しをすると身の
上話や最初はGSのテンプターズのファン
だったそうですが人気があまりにすごい
のとライブがあんまり無いので住んで
いた新宿の近くにあった歌舞伎町のジャズ
喫茶ラ・セーヌで僕たちを見てすぐに
ファンになったそうです。
色々お話しをしていると近々デビューする
というので今度先生にお会いしませんか?
と言われ翌週にメンバーを誘い3人で
新宿厚生年金会館の裏にある家へ招待され
ました。
そこで迎えてくれたのが石坂まさを先生
だったのです。
石坂まさを先生は変わった方で「君たちは
まだ若いし沢山食べな!」と言って中華
料理店から出前で餃子を3人前注文して6人
で食べました。
おなかいっぱいになるはずがありません
(笑)
そして彼女は数ヶ月後にデビューして瞬く
間にブームを築き大歌手になりました。
僕たちはデビュー曲も売れないまま次の
新曲も出せないで居たところライブを見に
来ていた藤圭子さんが僕に会わせたい方が
いるので是非時間を取って欲しいと言われ
指定された場所に行くとそこには当時RCA
ビクターの大プロデュサーの榎本譲
(エノモトジョー)さんがいらっしゃい
ました。
僕に色々と聞いてきて緊張していたので
何を話したかほとんど覚えていませんで
したが帰り際にうちの会社から次の曲を
出そうと言ってきたので僕はビックリ
しましたが後日、純ちゃんに心からお礼
を言いました
(藤圭子のニックネームでこう呼んで居ました)
榎本譲さんを紹介してくれたこの出会い
がその後の僕の人生を変えたのです。
その後、藤圭子さんと同じレコード会社
から再デビューしたのですがオリコンで
40位ぐらいが最高位でついに解散へ・・
しばらく藤圭子さんに会わない期間が
続き彼女も前川清さんと結婚したり離婚
したりでしたが1974年頃に偶然六本木の
通りで再開して電話番号を教えてもらい
会う約束をしました。
彼女は六本木のテレビ朝日の近く
(現在の六本木ヒルズ)のマンションに
お母さんと住んでおり1Fにあったバーで
一緒に何度か飲みました。
しばらくしてバンド解散やいろいろあり
彼女とは疎遠になっていましたが1984年頃
に名古屋で仕事がありその帰りに新幹線の
グリーン車で偶然お会いしました
その時は再婚して宇多田さん、そして
赤ちゃんを抱いていてその子が
「宇多田ヒカル」さんだったんですね〜
東京へ着くまでお話しをして宇多田
ヒカルさんを抱っこもさせてもらいました
実はこの時に純ちゃんから紹介して
もらった榎本譲さんから色々仕事をもらい
ディレクターの助手をしたりソニー・東芝
EMIでプロデュースしたり株ゆうせん
(有線放送)の会社が音楽部門を作るので
そこへ取締役で行かされたりした事を話し
ていませんでした。
これが後にとても悔やんだ事だったのです
なぜかというとヒカルさんが15〜6才に
なった頃藤圭子さん・ご主人・ヒカルさん
の3人でグループを組んで(株)ゆうせん
に売り込みに来たのですが宇野さんという
社長があまりポップスに詳しく無かった
ので独断でお断りしてしまったのです。
この事は宇多田ヒカルがデビューしてから
知った事なのですがちょうど彼女たちが
訪れた日は僕が大阪出張でいなかった日
だったのです。
もしあの時に株ゆうせんにいることを話し
たら僕に相談に来てもちろん僕が担当して
いました。
そうであったら売れなかったって?
そうかもしれません・・・(笑)
横浜プリンスの帰りに電車で話していた時
に好きな曲は当時流行っていたエンゲル
ベルト・フンパーディンクの
「ラスト・ワルツ」と藤圭子さんは言って
いたので今回は天国の彼女にこの曲を捧げ
ます。

「ラスト・ワルツ」
posted by 上原オサム at 20:04| Comment(0) | 日記

2021年02月15日

「愛する君に」


◆僕が音楽業界に入ったのはGSブーム全盛
の時でしたが今では当時活躍した多くの
仲間が天国へ旅立って行きました
先日もゴダイゴのギター浅野孝已さんと
一緒に「チャコとヘルスエンジェル」を
やっていた柴田功君(キーボード)が亡く
なったと連絡があり本当にショックでした
柴田功君は解散してにダニエル・ビダルと
結婚するのでフランスに行ってもう日本へ
は戻ってこないというのでドラムの牧勉
さんと浅野孝已さん僕の4人でお別れ会を
やろうと長野県にある湯田中温泉へ1泊2日
の送別旅行へ行ったのを思い出します。
数年前に「あの人は今」というテレビ番組
で南フランスに住んでいるダニエル・ビダ
ルさんのお宅を訪ねるシーンがあり旦那
さんは日本人だと言っていて恥ずかしがり
屋でテレビには絶対に出ないと言っていた
ので柴田功君とまだ一緒にいるんだと安心
していたのですが・・・・・・・・
昨年5月に亡くなった浅野孝已さんとは
1968年頃に新宿歌舞伎町のディスコ
「サンダーバード」で良く対バンになり
仲良くなりました。
彼は「エム」というバンドでギターを弾い
ていてベースは後にスタジオミュージシ
ャンで一番売れていた岡沢章さんでした。
ドラムは現在原宿の老舗ライブハウス
「クロコダイル」の経営者の西さんです。
とてもマニアックでうまかったバンドでしたね〜
その後70年代に入り僕は「ローズマリー」
のメンバーで浅野君は
「チャコとヘルスエンジェル」でデビュー
して有楽町の日劇(現在のマリオン)
ウエスタンカーニバルでお互い人気
グループでトリを務め観客動員数2万人を
記録しニュースや週刊誌で取り上げられる
ほどの活躍をしました。
楽屋ではいつもギターのコードを僕に聞い
てくるので教えあったのを記憶しています
僕は10代の頃に先輩がジャズをやっていて
無理矢理難しいコードを教えられたので
それが役立っていたのだと思います。
湯田中温泉へ1泊2日の送別旅行へ行った
あとに僕は「ミッシェル」というバンドを
作り赤坂のポテトクラブに出演していた時
によく遊びに来て「一緒にやろうよ!」と
よく言っていましたがなかなか実現できま
せんでした
その後「ミッキー吉野グループ」に入った
ので遊びに来てよと言われ遊びに行くと
バンドはゴダイゴと名前も変わっていて
デビューして売れて皆さんご存じのブーム
を築きました。
1979年頃にはそのブームも去って北海道で
ロックフェスティバルがあり偶然
「ゴダイゴ」と僕がやっていたBORO
(大阪で生まれた女)のバックで共演しま
した。
その時もゴダイゴで一緒にやろうと誘われ
たのですが当時はもうバンドは疲れるので
やりたくなかったので実現はしませんでした
1990年代に入ってテレビ局で時々会う機会
がありお茶を飲んで昔話に花が咲きました
その時も「いつか一緒にやろうよ!」
としつこく言っていました。(笑)
2020年5月12日に心不全で亡くなったと知
らせが来たときには本当に信じられなかっ
たです。
なぜかというと1年ほど前からソロで
アコースティックライブをやっている事
を知りこれなら僕の打ち込み音源を使用
してコンパクトにライブを出来るのでは
ないかと思いやっと一緒にやれる時が来
たと次回のライブを見に行く約束をして
いたからです。
心よりご冥福をお祈り致しますm(_ _)m
今回は「ゴダイゴ」の銀河鉄道999と
思いましたが同じメンバーのミッキー
吉野さんが1968年に「ザ・ゴールデン・
カップス」に新加入してヒットした名曲
「愛する君に」を演奏してみました。
ちょっとアレンジしてコーラスも多めに
しました。
「愛する君に」
posted by 上原オサム at 10:34| Comment(0) | 日記

2021年01月29日

「保護した鳩のヒナの成長物語」


「保護した鳩のヒナの成長物語」
2020年3月頃に家のベランダで生まれた鳩
のヒナが成長して毎朝ベランダに餌をもら
いに来ていました
とても人懐っこく近づいても逃げません
そのうち部屋にちょくちょく入って来るよ
うになり恋鳩を見つけつがいになり秋頃に
は雛がかえりました。
ヒナのご飯の食べ方にビックリです。
親鳥の口の中に顔を突っ込んで食べるんで
すね〜
11月にヒナ2匹が無事に巣立って行きまし
た。
しばらくしたらまた卵を産み温め始めた
ようです。
12月に入りだいぶ寒くなってきたので
大丈夫かなぁと心配していました。
クリスマスのちょっと前に卵からヒナが
孵ったようで毎朝巣箱へ交代で来ては餌
をヒナに与えていましたが寒くなり餌が
少なくなったのかちょっと大きなハトの
夫婦がやってきて家のハトと餌を奪い合
い激しく喧嘩するようになりました。
しばらくはじっと様子を見ていたのです
が目の所や首にキズが出来てついには逃
げていって戻ってこなくなってしまいま
した。
新しい方のハトを追っ払っても追っ払っ
てもそれでもやってきます。
餌をあげないようにしたら来なくなるか
と思いましたがそれでも毎日やってきま

これでは生まれた雛に親鳥が餌をあげら
れなくなるのではと心配して巣箱を開け
て見るとそこには冷たくなったヒナとぐ
ったりしたヒナが2匹居ました。
僕はあわてて生きている方のヒナを家の
中へ入れて暖かくしてとりあえず餌をど
うやってあげれば良いのかネットで検索
してなんとか方法が見つかりました。
注射器で餌を口の中へ入れて与えると少
しずつ元気になって歩けるようになり小
さな命を救った喜びがこみ上げてきまし
た。
部屋の中で快適にお休みできるように小
さな段ボール箱で巣箱を作り入れると
おとなしく中ですやすや眠っていました
鳩は卵を産んでから飛べる様になるまで
約50日かかるそうです。
保護した時はひよこよりちょっと大きい
感じだったのですが徐々に大きくなりウ
ズラぐらいになりました
一週間経ってもう部屋を少しずつ歩いて
様子を見ている表情が本当に可愛いです
保護してから二週間ほど経ち普通の餌を
食べれるようになりました
日中はベランダに出してあげると羽を広
げ飛べる準備もするようになりました。
呼ぶとちゃんと部屋に戻り餌を食べます
そして段ボールの中へ一人で入り気持良
さそうにくつろいでいます
保護してからもう25日ほど経ちましたが
本当に大きくなりました
とても寂しいですが自然に帰してあげる
のがこの子にとって一番良いかもしれま
せんね〜
もうすっかり成長して立派な大人になり
ました。
30日が経ち外の景色を見ながら飛び立つ
準備をしています
そしてついに大空へ飛び立ちました!
続く・・・
「保護した鳩のヒナの成長物語」



posted by 上原オサム at 09:26| Comment(0) | 日記

2021年01月27日

「ダンス・ウィズ・ミー」


「ダンス・ウィズ・ミー」というタイトル
は何曲も有りますがなんと言っても元祖は
1975年にヒットしたオーリアンズの「ダン
ス・ウィズ・ミー」ではないでしょうか!
当時フュージョンミュージックが流行って
いましたがアコースティックギターとコー
ラスが気持ちが良いこの曲もかなり人気が
ありました。
何とギタリストでこの曲を作ったジョン・
ホールは解散後にアメリカ合衆国下院議員
になったんですね〜
僕のバンドでもレパートリーとしてやりた
かったのですがアコースティックギター担
当がいないのとコーラスが結構難しかった
ので断念しました。
山下達郎さんのライブバンドでコーラスと
して参加していた知り合いの村田和人さん
のソロライブを見に行った時にこの曲をや
っていて非常に感動しました
彼は声も良いし音楽的センスも非常に良い
方でしたね
実は1978年頃にバンドが解散して一人で今
のように多重録音で曲を沢山作っていて当
時よく一緒に飲みに行っていたのが元ワイ
ルドワンズのチャッピーとスタジオミュー
ジシャンで一番売れていたギターの芳野藤
丸(将軍でボーカル・ギター)さんでした
車に乗っている時に作った曲を聴いてもら
ったら「ソロでやったほうがいいよ!」と
言ってくれてその気になりRCAレコードの
知り合いのディレクターにデモテープを持
って行ったところ「うちの会社に同じよう
なサウンドですごいのがいるよ」と言われ
聴かせてもらったのが山下達郎さんでした
うわ〜めちゃくちゃ歌がうまい〜って事で
ソロになることをあきらめた瞬間でした。
(笑)
今の時代は自宅でレコーディングが出来る
のと一人でコーラスを多重録音できるので
70年代の名曲「ダンス・ウィズ・ミー」を
やってみました
PS
いろんな曲のリクエストが多くまた著作権
の関係で対応しきれないのでしばらくはこ
ちらの提供できる曲のみでお願いしたいと
思います。
どうぞご理解をよろしくお願いいたします
「ダンス・ウィズ・ミー」
posted by 上原オサム at 09:38| Comment(0) | 日記

2021年01月24日

「悲しき雨音」


僕が音楽に興味を持ったきっかけはなんと
言っても9500万人のポピュラーリクエスト
ではないでしょうか!
ランキング形式で21位まで発表してDJは
小島正雄さんという方でした
文化放送の木曜日放送で1963年〜1966年
頃までほぼ毎週のように聴いていました
この頃、作曲家の「すぎやまこういち」
先生は文化放送でディレクターをしていた
んですね〜(後にフジテレビへ行きます)
この番組は同世代の音楽をやっている方
には大変人気があり当時世界で流行って
いる曲を紹介しその中でもデイヴ・クラー
ク・ファイヴの「ビコーズ」とイタリアの
サンレモ音楽祭入賞曲の「ほほにかかる涙
」、そしてクリフリチャードの「サマーホ
リディ」が大変好きでした
1964年に初の東京オリンピックが開催しテ
レビでを見ながらラジオでこの番組を同時
に聴いていた記憶があります(笑)
この時代は今と違い海外と日本では1年ほど
発売とヒットのずれがありリアルタイムで
海外ヒットを聴くことが出来なかったんで
すね〜
僕が今でも好きな曲で亡くなった大滝詠一 
さんも歌唱方法に影響をうけたと言われる
カスケーズの「悲しき雨音」はボーカルの
ジョン・クラウド・ガモーさんが作り全世
界でヒットし多くの方がその声に心から魅
了されました。
4年ほど前に日本へ単独でやってきてご高
齢にもかかわらずライブビデオを見ました
が歌声も素晴らしかったです。
僕の中でも生涯忘れられない曲を原曲道り
再現し演奏してみました。「悲しき雨音」
「悲しき雨音」
posted by 上原オサム at 08:51| Comment(0) | 日記

2021年01月16日

「ムーン・アンド・スターズ」


「ムーン・アンド・スターズ」
◆昨年12月22日にハーフブリードのポール
とのお話でアップした「不思議な夢」が好
評で当時の想い出が甦ったとのコメントが
ございましてB面に入っていてライブでは
大変人気のあった曲「ムーン・アンド・ス
ターズ」をやって欲しいとの要望があり
早速演奏してみました。
レコードではテンポがちょっと早く演奏も
間違っているところもありちょっとゆっく
り目にしてライブ時と同じテンポに変えて
みました。
作詞・作曲は事務所の社長さんで木村さん
という方です。
とても音楽をやるようには見えなくて小太
りのその辺のおっさんという感じでしたが
大変優しくまたセンスもよく僕にも非常に
良くしてくださった方でした。(笑)
当時はあまりに高度すぎてわかる方が少な
かったので売れなかったのです。
ではやる方もいない非常に珍しい曲です。
ハーフブリードのカバー曲で
「ムーン・アンド・スターズ」をお聞きく
ださい
「ムーン・アンド・スターズ」

posted by 上原オサム at 22:42| Comment(0) | 日記

2021年01月12日

「保護した鳩のひな」


2020年11月に動画でアップした
「我が家に棲みついたハト」の続編です。
11月にヒナ2匹が無事に巣立って行きまし
た。
しばらくしたらまた卵を産み温め始めたよ
うです。
「あんたも好きね〜」って感じで笑ってお
りましたが12月に入りだいぶ寒くなってき
たので
大丈夫かなぁと心配していましたが鳥は羽
毛があるので冬でも大丈夫だろうと思った
のです。
クリスマスのちょっと前に卵からヒナが孵
ったようで毎朝巣箱へ交代で来ては餌をヒ
ナに与えていましたが寒くなり餌が少なく
なったのかちょっと大きなハトの夫婦がや
ってきて家のハトと餌を奪い合い激しく喧
嘩するようになりました
しばらくはじっと様子を見ていたのですが
目の所や首にキズが出来てついには逃げて
いって戻ってこなくなってしまいました。
新しい方のハトを追っ払っても追っ払って
もそれでもやってきます。
しばらくして餌をあげないようにしたら来
なくなるかと思いましたがそれでも毎日や
ってきます
これでは生まれた雛に親鳥が餌をあげられ
なくなるのでは・・・と心配して巣箱を開
けて見るとそこには冷たくなったヒナとぐ
ったりしたヒナが2匹居ました。
僕はあわてて生きている方のヒナを家の中
へ入れて暖かくしてとりあえず餌をどうや
ってあげれば良いのかネットで検索してな
んとか方法が見つかりました。
とりあえず近所にある100円ショップで香
水の入れ替え用のポンプ(注射器)と小鳥
の餌を購入しポンプの針を付けないで小鳥
の餌をつぶして豆乳・キナコを混ぜ合わせ
て電子レンジで暖めてくちばしを開いて与
えました
しかし慣れていないのでこぼしてばかりで
それはそれは大変でした。
この注射器では無理だとわかりペットショ
ップに電話したところジョイフルホンダの
ペット館にヒナ鳥用の給餌器(注射器)が
あり早速購入しました
この方法でしばらく試してみたら少しずつ
元気になって歩けるようになりました。
おお〜やった!と小さな命を救った喜びが
こみ上げてきました。本当にうれしかった
部屋の中で快適にお休みできるように小さ
な段ボール箱に着なくなったTシャツを何
枚か敷いて家でのおうちを作ってあげたら
おとなしく中ですやすや眠っていました。
年が明けて寒波がやってきて朝はかなり
冷え込むので段ポールの内廻りにウレタ
ン素材の梱包材で囲ってあげたら結構効
果があったようで朝でもバタバタしない
ようになりました
鳩は卵を産んでから飛べる様になるまで
約50日かかるそうです。(ネット調べ)
卵が孵化するまで約20日、孵化してから
約30日で巣立つのが通常で一年中子育て
が出来る生き物のようですので家で保護
したのが孵化後10日ほどなのであと20日
は育て無ければなりません
保護した時はひよこよりちょっと大きい
感じだったのですが徐々に大きくなりウ
ズラぐらいになりました
一週間経ってもう部屋を少しずつ歩いて
様子を見ている表情が本当に可愛いです
部屋に鳩が居るなんて普通では考えられ
ないしとても不思議な感じです。
保護して4日目から動画を撮りましたの
で第一弾をアップしました。
巣立ちまであと一週間ほどです。
続く・・・2020年11月に動画でアップした
「我が家に棲みついたハト」の続編です。
11月にヒナ2匹が無事に巣立って行きまし
た。
しばらくしたらまた卵を産み温め始めたよ
うです。
「あんたも好きね〜」って感じで笑ってお
りましたが12月に入りだいぶ寒くなってき
たので
大丈夫かなぁと心配していましたが鳥は羽
毛があるので冬でも大丈夫だろうと思った
のです。
クリスマスのちょっと前に卵からヒナが孵
ったようで毎朝巣箱へ交代で来ては餌をヒ
ナに与えていましたが寒くなり餌が少なく
なったのかちょっと大きなハトの夫婦がや
ってきて家のハトと餌を奪い合い激しく喧
嘩するようになりました
しばらくはじっと様子を見ていたのですが
目の所や首にキズが出来てついには逃げて
いって戻ってこなくなってしまいました。
新しい方のハトを追っ払っても追っ払って
もそれでもやってきます。
しばらくして餌をあげないようにしたら来
なくなるかと思いましたがそれでも毎日や
ってきます
これでは生まれた雛に親鳥が餌をあげられ
なくなるのでは・・・と心配して巣箱を開
けて見るとそこには冷たくなったヒナとぐ
ったりしたヒナが2匹居ました。
僕はあわてて生きている方のヒナを家の中
へ入れて暖かくしてとりあえず餌をどうや
ってあげれば良いのかネットで検索してな
んとか方法が見つかりました。
とりあえず近所にある100円ショップで香
水の入れ替え用のポンプ(注射器)と小鳥
の餌を購入しポンプの針を付けないで小鳥
の餌をつぶして豆乳・キナコを混ぜ合わせ
て電子レンジで暖めてくちばしを開いて与
えました
しかし慣れていないのでこぼしてばかりで
それはそれは大変でした。
この注射器では無理だとわかりペットショ
ップに電話したところジョイフルホンダの
ペット館にヒナ鳥用の給餌器(注射器)が
あり早速購入しました
この方法でしばらく試してみたら少しずつ
元気になって歩けるようになりました。
おお〜やった!と小さな命を救った喜びが
こみ上げてきました。本当にうれしかった
部屋の中で快適にお休みできるように小さ
な段ボール箱に着なくなったTシャツを何
枚か敷いて家でのおうちを作ってあげたら
おとなしく中ですやすや眠っていました。
年が明けて寒波がやってきて朝はかなり
冷え込むので段ポールの内廻りにウレタ
ン素材の梱包材で囲ってあげたら結構効
果があったようで朝でもバタバタしない
ようになりました
鳩は卵を産んでから飛べる様になるまで
約50日かかるそうです。(ネット調べ)
卵が孵化するまで約20日、孵化してから
約30日で巣立つのが通常で一年中子育て
が出来る生き物のようですので家で保護
したのが孵化後10日ほどなのであと20日
は育て無ければなりません
保護した時はひよこよりちょっと大きい
感じだったのですが徐々に大きくなりウ
ズラぐらいになりました
一週間経ってもう部屋を少しずつ歩いて
様子を見ている表情が本当に可愛いです
部屋に鳩が居るなんて普通では考えられ
ないしとても不思議な感じです。
保護して4日目から動画を撮りましたの
で第一弾をアップしました。
巣立ちまであと一週間ほどです。
続く・・・
「保護した鳩のひな」
posted by 上原オサム at 16:43| Comment(0) | 日記

2021年01月07日

「ビーマイベイビー」


「スターになっていたかも知れないお話」
◆1969年はGSブームの下り坂になり始めた
年でした。
ジャズ喫茶(今のライブハウスのような所)
のお客さんも減ってきて有名なGSのジャガ
ーズやモップスでも十数人という日が増え
てきました。
それでも希望をもって何とかやってきまし
たが渋谷でライブがあったある日そこへ有
名なスカウトマンが現れました。
その人の名は上条英男さんといって小山ル
ミ・ゴールデンハーフ・吉沢京子・後の
西城秀樹・安西マリア・舘ひろし・川島な
お美などを発掘しスターにのし上げました
もともとロカビリーの歌手でジョー山中さ
んをスカウトして4・9・1(フォー・ナイ
ン・エース)のボーカルにして活躍してい
ましたがすぐに引退し裏方になった経歴を
持つ方でした
僕のバンドのギターと知り合いだったよう
で今度うちへ遊びに来いと言っていたそう
です。
小山ルミ&USAでギターを弾いていたので
知っていたようですね
ボス(上条氏のニックネーム)は僕を一緒
に連れて来いと言ったそうで2〜3日後に目
黒にあった自宅に行くこととなりました
家に着くと背の高い若者が部屋へ案内して
くれてボスがリビングで待っていました。
ギターと僕にあるレコードを聴かせてくれ
このようなデュエットを組みたいので今す
ぐホリプロをやめて俺のところに来いとい
う内容で聴いたレコードはエバリーブラー
ザースのバイバイラブでした。
「二人でアコースティックギターを持って
デュエットか!」心の中でどうしようか、
やるかやめようか、それはそれは二人でい
ろいろ悩みましたが明日までにはお互いじ
っくり考えて結論を出そうという事になり
ギターのカズミも僕もやはり今もそうです
が当時ホリプロはナベプロに次ぐ大きな会
社だったので辞めたら後々が怖いことなど
を考えましたね〜
ホリプロの総務にいたお姉さんのようにし
ていただいた渡辺さんに(通称なべちゃん)
相談したら親身になって考えてくれて
「もしかしたら売れる確率は高いけどホリ
プロを辞めたらその後の圧力の方が怖いか
もしれないね!」
ってアドバイスをいただき結局お断りをす
る事にしたのです。
二人でボスの家へまた行きましたがボスの
家に居候していたのが後の西城秀樹さんで
廊下を拭き掃除していたり僕らにお茶を出
してくれたりしていました
ちょっとお話をすると「僕はデビューでき
るかどうかわからないけど可能性にかけて
一生懸命頑張りたいと思うので色々教えて
欲しい」と言って連絡先を聞き僕達のバン
ドのライブやリハーサルに2〜3度遊びに
来て少しの間親交を深めました。
今思うとボスがスカウトした方はすべて売
れたんですね〜(これはすごいことです)
あの時、ホリプロを裏切ってボスの所へ行
っていたらと思うと複雑な気持ちです。
ボスにどうして僕を誘ったのかと聞いたと
ころ渋谷のライブの時に歌ったロネッツの
曲「ビーマイベイビー」が大変気に入った
そうです。
ということでDMでもリクエストが多かっ
たロネッツのヒット曲で
「ビーマイベイビー」です。
「ビーマイベイビー」

posted by 上原オサム at 16:07| Comment(0) | 日記

2021年01月05日

「Roll Over Beethoven」


「チャックベリーとの想い出」
◆海外アーティストと共演した思い出では
ベンチャーズも沢山ありますが何といって
も1981年に初来日したロックンロールの
神様と言われた「チャックベリー」ではな
いでしょうか!
日本公演は全5回のコンサートで渋谷公会
堂2回、厚生年金会館名古屋、大阪フェス
ティバルホールでした。
「チャックベリー」は演奏メンバーを各国
で選抜してリハーサルをしないでいきなり
本番なのです。
どうしたら出来るのかというとロックンロ
ールは12小節単位のほとんどが3コードで
キーがわかれば演奏できるからです。
日本公演ではメリージェーンで有名なブリ
ジストンの御曹司の成毛滋さんと僕が選ば
れ成毛滋さんは渋谷公会堂2回であとは僕
が3か所でした。
リハーサルがないことが分かった成毛滋
さんは最初のコンサートが新宿厚生年金
会館だったのでライブをミキサーさんに
頼んで録音して家に届けて欲しいという
お願いでした。
幸い僕が住んでいたところは今の六本木
ヒルズのあった場所のマンションに住ん
でいたので成毛滋さんの自宅があった飯
倉片町の豪邸まで徒歩で10分ほどの距離
でした
最初のコンサートは無事に終わりカセッ
トテープをお届けに成毛滋さんの自宅へ
行くと何とお手伝いさんがいて部屋に
案内されました。
(ものすごい豪邸でした)
鳩山前首相ともいとこで年もおなじだっ
たようです。
隣の家の表札には石橋とありました。
(ブリッジストーン)
成毛滋さんはお茶を出してくれて「あり
がとう、これで本番バッチリだ!」と大
変うれしそうにしていましたが後で聞い
た話では渋谷公会堂のコンサートの本番
に遅刻して「チャックベリー」に大変嫌
われたそうです。(笑)
皆さんは成毛滋さんは長髪のイメージが
ありますが僕がお宅に伺った時は坊主頭
でお兄さんかと思いましたが実はカツラ
だったんですね〜(笑)
と言っても禿げでは無く普段は短髪が好
きだったようです。
大阪フェスティバルホールが日本公演の
最後でコンサートで終わるとイベンター
が僕の部屋をノックしに来てこれから
「チャックベリー」が一緒に食事をした
いので来てほしいと言われホテルにあっ
たすき焼きのお店に行くとそこにはニコ
ニコした「チャックベリー」とお嬢さん
の非常に優しかったイングリットベリー
さんがいて僕を隣の席に座らせご一緒に
すき焼きをいただきました。
後日聞いた話では世界でツアーをして現
地のミュージシャンと食事をしたのは初
めてだったそうです。
二度目に来日した時は横浜スタジアムだ
ったそうででその頃はもうバンドを組ん
でいたので呼ばれませんでしたが何やら
機嫌が最悪で演奏予定時間の半分しかや
らなかったそうで「前回来た時のメンバ
ーのサムはどうした?」と言ったそうで
す。
「チャックベリー」にはロスで使ってい
たサムという名前を教えていたのですが
数年経ったのに覚えていてくれたんです
ね!
その話を聞いたときは本当にうれしかっ
たです。
僕が不思議に思ったのはどうして僕の事
を気に入ってくれたかという事でした。
イベンターの方の推測では海外のミュー
ジシャンはどうしても対等に話かけて尊
敬の念がないという事と自分が一番だと
主張が強いようで僕の場合は最初にお会
いした時に深々とお辞儀をした事と「チ
ャックベリー」さんを尊敬していると英
語で伝えた事が原因ではないかと言って
いましたが真実はわかりません
コンサートで取材に来ていた今でもある
音楽雑誌「プレーヤー」の記者さんが
「チャックベリー」が僕に対する態度を
見て成毛滋さんの時と全然違うのでぜひ
取材をと申し込まれたのでOKしましたが
何と5〜6ページに渡って書かれていた
のには本当にびっくりしました。(笑)
そうそう、新宿厚生年金会館でのコンサ
ートの時見に来ていた加瀬邦彦さんと沢
田研二さんが楽屋に訪ねてきたのです。
加瀬さんが「なんだ〜オサムがやってい
たんでビックリしたよ」といって僕に6
月のスケジュールを聞いてきました。
ワイルドワンズが再結成してディスコ
メートレコードからレコードを出すので
一緒にやってほしいという内容でした
場所がハワイのスタジオだったので入っ
ていたスケジュールをキャンセルしてお
受けしました。(笑)
その事が今でも繋がって島英二さんの
バンドに参加しています。
それでは聞いてくださいチャックベリー
のヒット曲で「Roll Over Beethoven」
「Roll Over Beethoven」
見れなかった場合はこちらです
「動画はクリックしてください」


posted by 上原オサム at 19:48| Comment(0) | 日記

2021年01月03日

「ミスターロンリー」


「君の瞳に恋してる」はコーラスが多いと
思いましたが実際聴いてみるとそんなに多
くなかったですね〜(笑)
コーラスが良いグループでビーチボーイズ
やフォーシーズンズ、フォーフレッシュメ
ンなどと書きましたが大事なグループを忘
れていました。
その名は「レターメン」です。
3人でよくぞここまでハモるのかと心から
関心をしていました。
日本公演も2回ほど見ましたが本当に最高
でした。
ロックミュージシャンで全く興味のなさそ
うな方も見に来ていてやはり評価は高かっ
たようです。
1970年当時に大枚をはたいて買った日産の
フェアレディ240ZGの新車にあった8トラ
ックのカーステレオで「レターメン」のア
ルバムを聴きながらドライブは最高でした
8トラックとは知らない方も多いと思いま
すがカセットの前に短い期間でしたがカー
ステレオとしてあった物でオープンリール
をエンドレスにしたような感じで音質はカ
セットより良かったです。
今回アップする「ミスターロンリー」は当
時の雰囲気を出すために音源をちょっと歪
ませてみました。
「レターメン」を再現してみましたのでご
覧ください
「ミスターロンリー」


posted by 上原オサム at 16:55| Comment(0) | 日記

「君の瞳に恋してる」


僕が最初に覚えた楽器はエレキギターでし
たがそれがどうしてプロではベースギター
になったのかというのには理由があるので
す。
1968年にモータウンフェスというのが有り
そこで演奏していたベーシストが今までの
ベース奏法と全く違う演奏をしていた事に
ビックリし感動したのでこれからはベース
をやろうと思ったのです。
それまではポップスやロックンロール、ロ
ック等が好きでしたがだんだん黒人音楽が
好きになってきました。
70年代に入りロックとジャズとR&Bが合体
したフュージョンミュージックにはまりベ
ースはチョッパー(現在のスラップベース)
ばっかりやっていて1976年には僕のバンド
が演奏していた六本木のクラブに当時世界
で大流行していたブラザースジョンソンの
マネージャーが飲みに来ていて
「君のプレーは良い、アメリカに来てみな
いか?」
とスカウトされましたが当然言葉の問題や
やって行く自信が無くお断りしました。
僕の音楽人生で一番派手なベースを弾いて
いた時期です。(若かったんですね〜)
もう一つ好きだったのがコーラスです。
日本人はあまり得意では無かったので
ビーチボーイズやフォーシーズンズ、
フォーフレッシュメンなどをコピーして
いるバンドやグループは皆無でした
最近では僕個人でやっているコンピュー
ターでドラム・ベース・キーボードのパー
トを録音しその音源に僕のギターと歌を
追加してやる一人ライブでコーラス物を
多くやっています。
ではフォー・シーズンズのフランキー・
ヴァリが1967年に発表し全世界でヒット
しカバーもものすごく多かった名曲です。
「君の瞳に恋してる」を演奏してみました
「君の瞳に恋してる」

posted by 上原オサム at 08:36| Comment(0) | 日記

2020年12月31日

「And I Love Her」


◆まだ寒い2月の初旬に学校帰りにいつも
立ち寄っていたレコード店へ入るとものす
ごくかっこいい曲が流れていたのでお店の
方に聞くと「今日発売された曲です」と言
ってレコードジャケットを見せてくれまし
た。
ジャケットにはコーラス・ビートルズ
「抱きしめたい」と書いてあり初めて見る
グループでした
すぐにレコードを買い家でじっくり聞くと
今まで聴いていたインストグループとは違
い新たな魅力を感じた瞬間です。
その後、今とは違って1ケ月に何曲も発売
されシングルレコードを全部買う事になり
僕の少ないお小遣いでアルバムまで買って
しましました。(笑)
もうその後は言うまでもなくはまってしま
い、いつしかベンチャーズやスプートニク
スやシャドウズはだんだん聴かなくなりま
した。
しばらくして『ビートルズがやってくる
ヤァ!ヤァ!ヤァ!』というビートルズ初
主演の映画が公開され学校をさぼって見に
行くとそこには女子高校生がスクーリンに
向かってメンバーの名前を叫んでいました
ジョン・ポール・ジョージ・リンゴ・梨・
みかん〜とか(笑)
もっと静かに見れないのかな〜と思いなが
らも僕も心の中でメンバーの名前を叫んで
いました・(笑)
映画の中の曲はどれもレコードプレーヤー
(音がしょぼい)で聴くのとは違って大迫
力で感動したものです。
全曲が本当にすばらしかったです。
今年最後のアップ動画です。
どうしてもとリクエストがありましたので
映画挿入曲で「And I Love Her」をお聞き
ください

「And I Love Her」
posted by 上原オサム at 15:47| Comment(0) | 日記

2020年12月29日

「霧のカレリア」


◆僕が音楽に興味を持ったきっかけは1964
年頃だったかな?
ラジオで流れていた「9500万人のポピュー
ラーリクエスト」という番組があって良く
聞いていました。
日本の曲よりなんか肌に合う感じがして毎
週聞いていた記憶があります。
1964年〜1965年にかけてエレキギターが
流行し僕も買ってもらいました
そこで良く聞くようになったのがベンチャ
ーズ等のインストグループの曲でした。
中でも後にご一緒したスプートニクスの
「霧のカレリア」は大好きでレコードが
すり切れるほど聴いたものです。
リーダーでリードギターのボーインバーグさん
は電気技師でなんでも ご自分で作ってし
まうんですね〜
きれいなこのエコーマシーンもご自分で作
ったそうです。
背が高く顔が長くて優しかったのを今でも
覚えています。
その後ビートルズが出てきてもう夢中にな
りコピーしまくりました。
初期の曲なら全て譜面無しで演奏できます
(笑)
今回は最初にコピーした曲ということで
スプートニクスの「霧のカレリア」を演奏
してみました
「霧のカレリア」 演奏・上原オサム

「霧のカレリア」
posted by 上原オサム at 09:18| Comment(0) | 日記

2020年12月27日

「We're All Alone」


僕の音楽生活の中でデビュー前からや売れ
る前から知っている方に西城秀樹さん、
藤圭子さん、井上陽水さん、プリプリ、
アリスのきんちゃんなど沢山いらっしゃい
ましたが特に藤圭子さんには僕の人生に多
大な影響を与えていただいた大プロデュー
サーを紹介してくれたりして大変感謝して
おります。
(後日詳しくアップいたします)
海外のアーティストでもご一緒に演奏させ
ていただいたのがベンチャーズ、チャック
ベリー、ハイタイドハリス(ジョンメー
オール&ブルースブレーカーズ)
スプートニクス、ボビーシャーマンなど
沢山ありました。
日本でヒットする前から持っていたレコー
ドにアルバム『シルク・ディグリーズ』
(BOZ SCAGGS)がありアルバムのA面一曲
目のローダウンとA面最後の曲ウイオール
アローンやB面最後のハーバーライトは
ものすごく気に入っていました
日本公演も見に行きましたが数年前にアメ
リカの少人数で行ったクラブでのライブは
スカパーで録画しましたがすばらしかった
です。
では名曲「We're All Alone」を演奏しまし
たのでお聞きください

「We're All Alone」
posted by 上原オサム at 14:38| Comment(0) | 日記

我が家の初代のにゃんこ

neko.jpgneko.jpg

◆昭和63年に我が家に来たにゃんこちゃん
です。
とてもおとなしく居るかいないかわからな
いくらいおとなしい子でした。
車に乗ってもダッシュボードにちょこんと
座り高速の料金所では集金人さんが人形か
とビックリするくらいおとなしかったです
7歳時の写真が出てきました
本当に可愛く美しく目に入れても痛くない
ほど可愛かったですが目に入れたら痛かっ
たです。(笑)

2000年に来たにゃんこです。昨年に19歳で旅立ちました
neko.JPG
posted by 上原オサム at 09:55| Comment(0) | 日記

2020年12月25日

「雨にぬれても」


◆今までで心に残る映画といえば
「パピオン」「バックトウザフィチャー」
「明日に向かって撃て」の三作品です。
もう何回と見ましたが名作はやはり飽きな
いですね〜
1969年に公開されてすぐに見に行きロバー
トレッドフォードに憧れて髪型まで同じに
してくれと美容院で頼みましたが無理でし
た。(笑)
また主題歌の「雨にぬれても」は曲も声も
最高ですぐにシングルレコードを買い歌も
覚えたものです
歌っていたB・J・トーマスのアルバムも
買い次のシングル「君を信じたい」もかな
り好きでしたがのちにエルビスプレスリー
もカバーしていましたね!
ミュージック動画にしてほしいとの要望も
ありやってみました
コーラスバージョンです。

「雨にぬれても」
posted by 上原オサム at 23:21| Comment(0) | 日記

「いい湯だな」


寒くなってきましたね〜
僕の趣味の一つに温泉があります。
北は北海道登別温泉や南は鹿児島指宿、
大分別府温泉など有名な温泉はすべて
入りましたが特に好きなのがアルカリ
泉です。
関東では群馬県にある小野上温泉が
有名ですが最近は源泉が変わったよう
で以前ほどツルツルとしていないのが
残念です。
一番いいと思ったのは愛媛県滑床渓谷
にある温泉です。
お湯がきらりと光りもうお肌はツル
ツルです。
ということでドリフターズ
「8時だよ全員集合」で有名になった
「いい湯だな」をコーラスでやって
みました。
どうぞご覧くださいお猿さんが気持
ちよさそうです。

「いい湯だな」
posted by 上原オサム at 09:56| Comment(0) | 日記

「君は1000%」


昔僕の先輩のバンドに「アウトキャスト」
というすごいバンドがありこのバンドの
ボーカルの轟健二さんやベースの大野良二
さんには大変お世話になりました
メンバーの一人に藤田浩一さんという方が
いましたが解散後にラブというバンドを作
り「イカルスの星」がヒットいたしました
その後GSブームも去って久々にお仕事でお
会いすると音楽事務所の社長をやっていて
角松敏生、レイジ、菊池桃子、そして
杉山清貴&オメガトライブをデビューさせ
大活躍されていました
バンドをやられていた頃は結構厳しくされ
ていましたが裏方になってからはかなり温
厚になり大変話しやすくなりました。
1986年にはカルロス・トシキ&オメガトラ
イブでヒットを出し嬉しそうに笑っていた
のを思い出します。
2009年10月11日に亡くなられたと聞き本当
に残念です。
今回は最後にヒットさせた「君は1000%」
を演奏してみました

「君は1000%」
posted by 上原オサム at 09:54| Comment(0) | 日記

◆ミュージック動画◆


◆新型コロナウイルス感染が少し収まった
今朝悲しいニュースが、5月13日
ゴダイゴ ギタリストの浅野孝已さんが亡
くなった。
今年初めに今度ライブを見に行くねって
言ってたばかりなのに・・・
「M」「チャコとヘルスエンジェル」と
バンドを続けてきて僕とは50年以上の
つきあいでした。
「ゴダイゴ」を作った時に僕の作った
ばかりのバンドをよく見に来てくれて
「お互いいくつまで出来るかわからな
いけど頑張ろう」って誓った事が昨日の
様に思い出されます。
心からご冥福をお祈り致します。

ミュージック動画をまとめてお送りしま
すのでお楽しみください


「君は天然色」
「マスカレード」
「うちで踊ろう」
「パプリカ」
「真夜中のドア」
「コロナ天国」
posted by 上原オサム at 09:50| Comment(0) | 日記

「ラストダンスは私に」


「ラストダンスは私に」
(Save the Last Dance for Me)
1960年にアメリカのコーラス・グループ
ドリフターズが大ヒットさせた曲を60年
後に現代のアレンジで演奏してみました
この曲をビートルズのポールが聴いて
「ヘイ・ジュード」を作ったと言われ
ています。

「ラストダンスは私に」
posted by 上原オサム at 09:41| Comment(0) | 日記

「我が家に棲みついた鳩」


「我が家に棲みついた鳩」
5月に部屋にちょくちょく入ってきた鳩が
つがいになり雛がかえりました。
ヒナのご飯の食べ方にビックリです
親鳥の口の中に顔を突っ込んで食べるんで
すね〜
動画を撮りましたので見てください
しかし糞がすごくなってきたのでヒナが旅
立ったら天気の良い日に掃除しなくては!
BGMは僕の作った曲です

「我が家に棲みついた鳩」
posted by 上原オサム at 09:40| Comment(0) | 日記

「雨に消えた初恋」


「雨に消えた初恋」カウシルズはアメリカ
で1967年9月日本では1968年1月15日に発売
され大ヒットしました
キャシュボックス全米1位をビルボード2位
を獲得!
この年は日本中がGS(グループサウンズ)
の大ブームでラジオから流れるこの曲に
感動した事を今でも思い出します
大橋巨泉さんがこの曲のラジオCMで
「牛も知ってるカウシルズ」というキャッ
チフレーズも笑いました 
「カウ(牛)・シル(知る)」です。
懐かしい曲を思い出し演奏してみました

「雨に消えた初恋」
posted by 上原オサム at 09:37| Comment(0) | 日記

「チャイナタウン」


僕が矢沢永吉さんと初めてお会いしたのは
1972年ちょうどパンダが上野動物園にやっ
てきた頃と同時期と記憶しています。
TBSテレビ,夕方5時からせんだみつおさん
司会で「銀座ナウ」という生放送の若者向
けの番組でした。
毎週木曜日にキャロルそして僕がいたバン
ドローズマリーがレギュラーになり半年ほ
どご一緒させて頂きました。
僕のいたローズマリーはGSブームが去って
解散したオックスのリーダー福井利夫さん
が作ったバンドです
(内田裕也&ミッキーカーチス・プロデュ
ース)
皆さんご存じの通りキャロルは最高のロッ
クンロールバンドでしたが活動時期は結構
短かったです。
「銀座ナウ」の放送が終わるとすぐに六本
木にあったアルカポネというサパークラブ
で演奏していた僕らの店に矢沢永吉さんが
ちょくちょく遊びに来ては歌いました。
あるときテレビ東京の番組で話題のグルー
ブというタイトルでキャロルとローズマリ
ーの特集の収録が決まり(テレビ東京がま
だ東京12チャンネルと言っていて東京タワ
ーの隣にありました。)
当時の歌番組は収録に丸1日かかり本当に
大変でした
カメリハが終わり休憩時間は他のメンバー
がどこかへ遊びに行ってしまい楽屋にいた
のは矢沢永吉さんと僕だけになり矢沢さん
は暇つぶしにギターを弾いて歌っていて
僕が「いい曲ですね!」というとニコッと
笑い語り合ったのを思い出します。
キャロルらしくないバラード調の雰囲気で
良い曲でした
何とその曲がソロになって大ヒットした
「時間よとまれ」だったんですね〜
その後45年以上お会いしていませんが現在
も第一線でご活躍しているのはすごいです

◆キャロルのメンバーの一人ジョニー大倉
さんの命日は11月19日でした。
キャロル解散後、内田裕也さんのバントで
何度も一緒になりまた住んでいたところが
近かった(麻布十番付近)こともあり
麻布十番のあるお店でよく飲みました
ある日偶然六本木の交差点付近で逢い一緒
に飲みに行こうということになり3〜4軒
はしごしてなんとお勘定はすべてジョニー
が支払いました!
「今日、大河ドラマの出演ギャラが入った」
と現金の封筒を見せてくれてそれを全部使
ってしまいました。 (笑)
本当に豪快でいい男でした。
世間でいわれている「生意気な奴」という
イメージは僕には全くありません、
才能あふれるナイーブな鬼才という感じで
した・・・
キャロルのメンバーとの思い出です。
「時間よとまれ」のB面で人気がある
「チャイナタウン」を演奏してみました。

「チャイナタウン」
posted by 上原オサム at 09:34| Comment(0) | 日記

「秋風の恋」


僕はバンドが解散、もしくは休止した時に
必ずと言っていいほどハワイやロスへ半年
ほど行く癖がありました。(笑)
1976年もそんな年でハワイでアパートを借
り住んでいて時々レンタカーを借りてはフ
リーウエイをドライブしていました
いつもカーラジオをつけては流行りの曲を
聴いていましたがその中でもお気に入りの
曲がイングランドダン&ジョンフォードコ
リーの「秋風の恋」〜I'd Really Love To See
You Tonightでした。
全米ではヒットしていましたが日本ではあ
まりひっとしていなかったようです。
僕の中では世界一美しい声のイングランド
ダンも病で亡くなりとても寂しいですね!

1972年12月21日にThree Dog Nightが日本
武道館でコンサートがあり大ファンだっ
た僕は見に行きました。
前座にイングランド・ダン&ジョン・
フォード・コーリーが出演していて歌声
のすばらしさに本当に感動しました。
その日からファンになった記憶があります
確かトークで「今夜コンサートが終わった
ら赤坂の何とかというお店で飲んでいるの
で是非来て語り合おう!」なんて言って
いたのを記憶しています。(笑)
1970年にアメリカでモンキーズの次のアイ
ドルボビー・シャーマンがハリスガムの
CMで日本に来て日本武道館でコンサートを
やり前座に僕のバンドとザスパイダースが
出ましたが2年前の70年当時はPAなる物が
無く実際演奏すると全く何をやっているの
かわからなかったです。(笑)
PAとモニターの重要性がはっきりとわかっ
た瞬間でした。
ではお聞きください「秋風の恋」

「秋風の恋」
posted by 上原オサム at 09:26| Comment(0) | 日記

「Special To Me」


◆1979年もまたバンドが休止した年でした
早速ロスへ向かいアパートの隣に住んでい
た方とお友達になりサンフランシスコへ車
でフリーウエーイを飛ばして遊びに行く事
になりご一緒させていただきました。
アメリカでは日本と違いカーラジオから流
れてくる音楽がなぜか音質がいいんです
その理由は日本でAM放送はモノラルでし
たがアメリカではすでにステレオだったん
ですね〜
カーラジオから流れてくるボビー・コール
ドウェル(Bobby Caldwell)の
「風のシルエット」が心地よくすぐにファ
ンになってしまいレコード(アルバム)を
購入しました。
その1曲目に入っていたのが
「Special To Me」で今回演奏してみました

「Special To Me」
posted by 上原オサム at 09:23| Comment(0) | 日記

「暗黒街への挑戦」


「暗黒街への挑戦」
1970年代もう一つハマったバンドがありま
した
このバンドの演奏をやりたくて作ったバン
ドが「ミッシェル」(RCAビクター)でし
す。
そのバンドとは「Earth Wind & Fire」です
日本公演・ロスでの衝撃的なコンサートで
もう大変でした (笑)
このバンドはたぶんライブでは世界一うま
かったと思います。
マジックなどふんだんに取り入れ今までと
全く違ったライブをやっていましたね〜
僕のバンド「ミッシェル」はTBSの銀座ナ
ウも準レギュラーで出演回数はかなり多
かったです。
チャーと一緒の出演の時、リハーサルで
僕のBassプレーを見て「一緒にやろうよ!
」とお誘いを受けましたが僕がリーダー
だったのとホリプロとの契約の関係上
お誘いを受けることができなかったの
です。 懐かしい〜な〜
ライブでは「Earth Wind & Fire」 の曲を
7〜8曲やっていましたが今回やる曲
「暗黒街への挑戦」はやった事がないの
と一番最初に好きになった曲なのでやっ
てみました。
音質は当時より格段に良いと思います

「暗黒街への挑戦」
posted by 上原オサム at 09:18| Comment(0) | 日記

「Greatest Love Of All」


GS(グループサウンズ)時代の先輩に萩谷
清さんという有名なジャズギターリストが
いらっしゃいますが奏法が僕の好きなウエ
スモンゴメリーやジョージベンソンを彷彿
させるサウンドで大変素晴らしいです。
是非レコードを聞いてみてください!
ジョージベンソンのライブを日本で2回,
ロスで1回見ましたが本当に素晴らしか
ったです。
(後期より前期の方が好きです)
セカンドギターを弾いていたフィルアッ
プチャーチはロスに住んでいてベーグド
ポテトと言うお芋料理がおいしいライブ
ハウスに良く出ていて何度も見に行きま
した。
時々ゲストにキーボードのロニーフォー
スターやハービーメイソンも出ていてもう
感激でした。
(お客様で有名なミュージシャンも沢山見
に来ていました)
中野サンプラザでのコンサートの時は
SONYのカセットレコーダーを鞄に忍ばせ
録音したのは後にも先にもジョージベンソ
ンだけでした。(笑)
2020年コロナの年最後のアップはジョージ
ベンソンの名曲「マスカレード」では無く
「Greatest Love Of All」です。(笑)

「Greatest Love Of All」
posted by 上原オサム at 09:12| Comment(0) | 日記

「I'm Not In Love」


1974年頃に「ジュテーム」というバンドを
作り六本木のナイトクラブで演奏していま
した。
僕らの演奏を見に来ていたTBSの大プロデ
ューサーの渡辺正文さんの一声で日曜夜
11時から放送されていた「サウンドイン
S」という番組にレギュラーが決定!
そしてまた見に来ていたテレビ朝日の大
大プロデューサーの皇(すめらぎ)さん
のお力で「せんみつのジョイジョイスタ
ジオ」にもレギュラー出演させていただ
きました。
隣のスタジオではドリフターズの新番組
の収録で加入されたばかりの志村けんさ
んが一生懸命セリフを暗記していたのを
記憶しております。
皇(すめらぎ)さんにはその後も定年退
職されるまで可愛がっていただき心から
尊敬できる方でした。
そのバンド「ジュテーム」はワーナーパ
イオニアよりデビューしたのですが全く
売れず事務所も倒産しバンドは休止にな
り今年で44年が経ちますがまだ解散はし
ておりません(笑)
メンバーの中の二人はすでに亡くなって
おりボーカルとギターは現在関西で活動
中で最初のギターは後にビージーフォー
の「モト冬樹」さんでした
今回は洋楽のリクエストが多かったので
当時やりたくてもできなかった1975年の
ヒットの名曲10CCの「I'm Not In Love」
です

「I'm Not In Love」

posted by 上原オサム at 08:51| Comment(0) | 日記

2020年12月24日

「不思議な夢」


日本では1967年にブルーコメッツのブルー
シャトーが大ヒットしレコード大賞をとり
1968年はGS(グループサウンズ)の大ブ
ームでした。
ブームに乗ってライトダースというアマチ
ュアバンドにいた僕はリードギター担当し
てボーカルは沢田研二さん似の美男子で
結構人気もありました
当時ヤマハの「ライトミュージックコンテ
スト」というのが有り優勝するとデビュー
できるというので早速申し込みなんと
地区優勝を!
全国大会では残念ながらダメでしたがその
時に出演した中学生がリードギターを弾い
ていたバンドがありその方は世界的にも有
名な渡辺香津美さんだたんですね〜
2000年頃にNHKで一緒になった時にその話
をしたら「あんまり昔の事は覚えて無いで
すね」と言っていました。(笑)
で、ライトダースはライトミュージックコ
ンテストの時にマネージャーにスカウトさ
れてデビューと言うことになりましたがサ
イドギターとドラムが「ナイガイ」という
企業に就職が決まってやめる事となり解散
し、その後ボーカルと一緒にメンバーを集
めライブハウス
(当時はゴーゴークラブと言っていました)
を掛け持ちして活動していました。
その後立花京子&パイロット(ポリドール)
シルクロード(RCAビクター)と転々とし
ていたとき仲良くなったのがザ・ハーフ・
ブリード(東芝レコード)でした
リードギターでボーカルの「ポール・リー」
はハーフでアメリカンスクール出身なので
英語がペラペラで歌が抜群にうまかった!
(今でも日本で一番うまいと思っています)
ある時一緒に水戸のイベントで一緒になり
帰りの電車が遅くなりポールが「夜も遅い
ので今夜は家に泊まれば」ということにな
り田園調布のマンションに着くとそこで待
っていたのは「リポーション」でドラムを
たたいていた矢沢透さんでした。
3人で夜明けまで音楽について話し合い夢
が膨らんだ瞬間でした
そう、矢沢透さんとはアリスのきんちゃん
です。
それ以来親交は続きアリス全盛の時もよく
一緒に六本木で飲みました
あの頃(リポーション時代)は日本でも5
本指には入るくらいの実力を持っていた
素晴らしいドラマーでした。
ポールは解散後、羅生門 を作り多少売れ
ましたがメンバーがすごかった。
(ハプニングス・フォーのクニ河内さんと
近田春夫さんもいました)
日本テレビの五木ひろしさんなどを発掘し
た歌謡選手権でも優勝しましたが日本の音
楽界に限界を感じハワイに渡りメジャーデ
ビューを試みていてA&Mレコードから契
約の話もありました。
僕も来いよと言われワイキキのダウンタウ
ンそばのオーシアナというところでポール
がギターボーカル・僕がベースとコーラス
でしばらくやりましたが地元でも結構彼の
ファンは多く絶対アメリカでも成功すると
思っていましたがその後音沙汰が無くなり
ました。
そう1968年の作品でザ・ハーフ・ブリード
で「不思議な夢」を初公開! たぶん誰も
やっていないでしょう!(笑)
ブルーコメッツの井上大輔さんのおうちで
色々話していたとき一番すごいと思った
ボーカルは「ポール・リー」だと聞いた時
は本当にうれしかったです。
「不思議な夢」

「不思議な夢」
posted by 上原オサム at 16:47| Comment(0) | 日記

「気絶するほど悩ましい」


僕の親友に「チャッピー」という有名なキ
ーボード奏者&プロデューサーがいて一ケ月
の半分以上も一緒に行動していて加瀬邦彦
さんは僕らに会うと「いつもお前たち一緒
だね!」って言って笑っていましたね〜
彼はワイルドワンズ解散後、キャンディズ
のバックを務めたバンドのリーダーをして
編曲やプロデュースや映画音楽を作ったり
して僕は手伝わされていてものすごく忙し
かったです。
キャンディズのバックバンドがMMPでドラ
ムが「リューベン」でした
1977年に「Char」とTBS銀座ナウで初めて
ご一緒した時のドラムが「リューベン」
だったのでリハーサルの時に「Char」を
紹介してくれてお話をするようになりまし
たが彼のギタープレーは本当にすごかった
2年ほど前に「Char」の「気絶するほど悩
ましい」を作曲した梅垣達志さんともお会
いする機会があったのとDMにて是非この
曲をやってほしいとのご要望もあり作って
みました。

「気絶するほど悩ましい」
posted by 上原オサム at 16:46| Comment(0) | 日記

「ルビーの指輪」


7〜8年前のクリスマスの時期に僕のライブ
(一人ライブ)を見に来てくれた千葉県で
一番大きな住宅メーカー新昭和の社長が
ホテルでクリスマスパーティをやるので出
てくれないか!と言うことでOKしました
ところ当日、会社のCMに出演している
寺尾聰さんとヴィレッジシンガーズのドラ
ムの林ゆたかさんとオックスのギターの
岡田志朗さんが来ると言うではないですか
社長にGS時代に僕と岡田志朗さんは一緒に
住んでいた事を話すと「それじゃみんなで
何か演奏してよ!」となり志朗さんに電話
したら寺尾聰さんがベース、林ゆたかさん
がドラム僕と志朗さんがギターで3〜4曲
やることになりました
実際やるとアンコール、アンコールで何と
30分もやってしまったんです。
リハサールが無くても曲名とキーを言えば
出来ちゃうのもやはりすごいです!(笑)
よく考えてみると4人ともホリプロのOB
だったんですね〜
寺尾聰さんもサべージで在籍していました。
しかし寺尾聰さんが持ってきた1963年式の
ジャズベースは良い音がしていましたしプ
レイもさすがといった感じでした
寺尾聰さんの大ヒット曲「ルビーの指輪」
を演奏してみました

「ルビーの指輪」
posted by 上原オサム at 16:39| Comment(0) | 日記